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鳥居元忠を考える

最近日本人はやわになってきたという。昔は武士の時代だから骨があるというか、一本背骨が通った見事な人間がいた。徳川家康に仕えた鳥居元忠なんかは、その代表といえよう。 そもそも元忠の父親の忠吉が偉かった。その当時、徳川家は当主が殺され、幼い跡取り息子の家康は今川家に人質として連れ去られていた。皆が極貧生活を偲ぶなかじいやである忠吉は家老として皆をささえた。年貢も大部分を今川にとられる決まりだったがせっせとヘソクリをつづけ、少年家康が一時帰省したおり、蓄えた銭を隠していた蔵に案内している。"いつまでも 苦しいのではありません。どうか、 もう一度、お家を再興する時にこの蓄えをお使いください。” 泣けるではないか。忠義一徹、そのくせ中々抜けめない、どうもこれが鳥居家の伝統らしい。 元忠は、このじいやの息子で、今川家でひとり人質でいるのはおさみしいでしょうと、家康の元に送られた。家康12ー3歳の時で、元忠は3歳年上だった。家康はもづを飼うのに熱中しており、元忠に育てる事を命じたが、元忠はどうも不器用だったらしく、うまくもづをしつけられなかったらしい。それに怒った家康は、元忠を廊下から地面に蹴り落とした。この知らせを聞いたじいやの忠吉は感心して "まことの主人にいます”と言った。普通は、故郷で経済を支えている家老の息子は いかに主君でもやはり遠慮して乱暴は出来ないものだ。それを遠慮なく足蹴にした家康は天性の主人だと、感心したのだ。いやはや、この人たちにかかるとなんでもいいように解釈してくれる。 このように元忠は少年期青年期を家康とともに育った。やがて家康は武田家を滅ぼす。武田家は敵とはいえ、強かっただけに家康も元忠も尊敬をしていた。特に馬場信春は武田家のエースで、かれには娘がいた。家康は馬場信春のむすめを探してつれてくるようにと命じたが、なかなかつれてこない。そのうち元忠が"ああ、あのむすめは私が見つけて嫁としました。" とすまして言った。 家康は大笑いした。"元忠は若い頃からゆからぬ者(万事に抜け目のない者)だった。" 鳥居の家族は忠実ながら、やはり抜けめない面があるらしい。 元忠は秀吉に朝廷から位階をくだされるようとりはかられたとき、自分は名誉はいりません。一生家康様の家来で結構です、と断っている。中々硬骨漢だ。また、部下思いで高高神城の攻防戦の際、食料が不足したなか、部下が無い中食事を準備すると、 ”自分だけどうして食べる事ができようか。自分は諸君と餓死することを選ぶ”と発言、皆奮発した。 さて、京都にて家康は大軍を率いて東北の上杉家を攻める事となった。家康のいなくなった後は、石田三成の軍勢が伏見城を攻撃するのは明白だった。伏見城の守備に残る事は全滅を意味していた。家康は元忠に伏見城の守備を命じた。気の毒に思った家康は沢山の家臣に応援させようとしたが、元忠はそれを断っている。 ”全滅必至の守備に人数を割くのは人材の無駄です。出来るだけ沢山が今後の戦いには必要です。 私の事は心配しないでください。” そして家康と元忠は別れを惜しみながら深夜までむかし話に興じたといわれる。 驚くのは、命を捧げて忠義を貫く人間が昔はいたという事だ。しかも、たくさんいた。日本の文化も侮れない。


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